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痛みの治療について 1 ー 痛みの治療薬の副作用

Facebookを通じて次の記事を知りました。

大石智(相模原市認知症疾患医療センター長)「 薬剤性の認知機能障害について

高齢の方の物忘れや、つじつまの合わない言動に出会ったとき、認知症を考える前に、薬をチェックする、というのは基本です。

記事の中で特に印象に残ったのは次の箇所です。

痛みに対する薬の中にも、認知機能に影響を及ぼす薬があります。比較的新しい薬としては、プレガバリン、トラマドール、デュロキセチンなどが最近、痛みに対してよく使用されていますが、これらは総じて認知機能に影響を及ぼす可能性があります。認知機能の改善を優先してこれらの薬を減量や中止することについては、痛みを強めるのではないだろうかと不安になるかもしれません。しかし中止しても痛みが強まることはなく、物忘れがよくなることを多く経験します。

私が在宅や病院での緩和ケアで学んだことは、痛みを取ることの大切さです。

患者さんはともかく痛みを取ってほしいのに、「痛みは病気の症状であり、それを取ってしまうことは病状の判断を誤らせるためすぐには取らない方がよい」という考えが一昔前にはありました。

幸い、今ではこの考えは過去のものになりましたが、それでも、患者と医師の温度差が依然としてあります。たとえば、痛みを訴えても検査で原因が見つからないときは「精神的なもの」とされて、心療内科・精神科に回される、ということが依然としてあります。患者さんにとっては、痛みを取ってくれない上、それを「精神的なもの」とされることで痛みの訴えそのものも無効化されるのです。そのことで精神的な痛みも付け加わってしまいます。

原因不明(もちろん最終的に断定するのではなく、常に原因を考えなければなりません)の痛みに対する治療には薬物療法と非薬物療法があります。非薬物療法には痛みに対するケアと認知行動療法などの心理療法がありますが、通常はそれだけではなく、薬も使います。

そこでよく使われるのが、プレガバリン(リリカ)、トラマドール(トラマール、ワントラム)、デュロキセチン(サインバルタ)です。

プレガバリン(リリカ)は眠気などの副作用が強い割に効果が乏しい(緩和ケアに携わる医師の多くが持っている印象?)ので私はまず使いませんし、使われている場合は抜去することが多いです。

トラマドール(トラマール)は麻薬(注)なので一定は効きますが、癌性疼痛には力不足です。副作用はモルヒネやオキシコドンなどの強オピオイドよりは少なめですし、法律的には「麻薬」ではないので整形外科でよく使われています。ただ、かえって痛みを慢性化するという話もあり、私は使うとしても短期にしています。

デュロキセチン(サインバルタ)は本来は抗うつ薬ですが、神経障害性疼痛に対して有力な薬で、私もときどき処方しています。実際、痛みが軽くなることもよく経験します。ときに離脱症状でやめづらいことがあるのが難点です。

ですので、数ヶ月したらいったん減量終了するようにしています。やめたら痛みがぶり返しそうですが、意外にも、そうなることは少ないです。何故なのか、はっきりしたことは分かりませんが、痛みの複雑な仕組みを示す例なのかもしれません。

その他、認知症との関連で言うと、トラマールやフェントステープ(フェンタニル)でのせん妄でかえって痛みの訴えが増えて、それを疼痛の悪化と間違えてさらに増量されて入院…そういうケースを病院の緩和ケアチームで何度か経験しました。

痛みの治療は医療の基本ですが、薬の使い方などの知識とスキルについてはまだまだ普及していません。ここにももしかしたら医療についての需要(ニーズ)と供給のギャップがあるのかもしれません。

痛みの治療について引き続き書いて行こうと思います。

2月11日のフラワーデモ@東遊園地

東遊園地に行ってきた。
僕やウィメンズネット・こうべの正井さんのような年配者には少しこたえる寒さだった。

フラワーデモも来月で最終回。
寒さに身体を丸めながらこの運動について考えていた。

せっかくの運動に水を差すような話ではあるのだが。

刑法が改正されても性暴力が減る訳ではないんだろうな、と思う。
被害者支援の末端に連なる自分の仕事が楽になったりもしないんだろうな、と思う。

北原さんや山本潤さんは達成感を持つのかもしれない。勇気づけられる人もいるのだろう。確かに前進なのかな、とも思う。

でも、自分にとっては何も変わらないのかな、と思う。

性暴力サバイバーにとって加害者が有罪になることは大きいのかもしれないが、それが彼女/彼らのトラウマをどれほど軽くするのか。彼らの生活がどれほど変わるのか。

彼女/彼らの「その後」は終わらず、「その後」に関わる自分の仕事も変わらない。

マクロな変化が仮にあったとしても、それが自分が実感できるためにはどれほどの時間がかかるのだろうか。そしてマクロな変化も順調に進むのだろうか。バックラッシュがあるのではないか。

出かける直前に友人からメールがあった。
彼女の被害(詳しくは書けない)からもう10年近く経つはずだ。しかし、加害者との避けることのできない関わりの中でまた大きなダメージを受けていると言う。

ともかく、日々仕事をするしかない。焦らず諦めず。患者さんによく言う言葉を噛み締める。

アカシジアと「賦活作用」とうつ病と

古くて新しい問題アカシジア(「静座不能」=じっとしていられない状態)。
抗精神病薬などドーパミン遮断作用のある薬の副作用なのだが、精神科では軽視される傾向がある。
個人的には研修医時代、ハロペリドールによるアカシジアで入院してきた患者さんを担当したとき一通り調べたし、その後も注意を払ってきた。しかし日本で「アカシジア」という語をよく見るようになったのは緩和ケアに携わるようになってから。麻薬性鎮痛薬(オキシコドン、モルヒネ)の副作用である吐気に対して処方されるノバミン(プロクロルペラジン)がアカシジアを引き起こしやすいからだ。ノバミンは古くからある薬で本来は抗精神病薬なのだが、何故か吐気止めとして使われてきた。当然パーキンソン症状やアカシジアの副作用がある。抗精神病薬ではないプリンペラン(メトクロプラミド)もドーパミン遮断作用がありアカシジアを引き起こすことがある。
精神科では重視されないアカシジアが緩和ケアでは重視されるのはなぜか、というのは興味深いが今は置く。
さて、他院で処方された薬でアカシジアを発症した患者さんが相談に来た。「うつ」という診断で最初はスルピリドとレクサプロが処方され、その後、レクサプロがアナフラニール、アモキサンと変わり、最後にオランザピンが追加された時点で「いてもたってもいられない」状態が出現したという。経過を詳しく聞いてみると、アモキサンが処方された時点でアカシジアのきざしが見られるのだが、主治医はそれを病状悪化と考えたらしく薬を追加して行ったようだ。この治療については失敗だと考えるし、現時点での問題はうつよりアカシジアになっていることも確かだ。
前医の治療を批判するつもりはない。「後医は名医」という言葉もある。ただ気になったのは、前医がうつに対して処方したと見られる薬がアカシジアを起こしやすい薬であり、さらにレクサプロ以外ドーパミン遮断作用のある薬であることだ。なぜだろう。
 
ここで「抗精神病薬の賦活作用」というフレーズが思い浮かんだ。
最近は耳にすることがなくなった「賦活作用」、抗精神病薬によって知情意の活動が活発になる、というちょっと逆説的な働きをこう言ったのだが、本当にそんなものがあり得るのか、研修医の頃疑問を持った。今回改めて思い浮かんだのは、それがアカシジアと関係があるのではないか、あるいは、患者さんが不快なものとして体験するアカシジアが、第三者、特に治療者の側には賦活作用として映る、ということがあったのかもしれない。
それを調べるには古い文献ということになるが、ちょうどよい文献がある。研修医時代に医局の図書室でコピーしたものだが、アカシジアについてこれほど詳細に論じた文献は他に知らない。
 
八木剛平『抗精神病薬によるAkathisiaの臨床的研究』(精神経誌1974)
 
アカシジアと抗精神病薬の賦活作用の関係についても論じられている。以下引用する。
 
akathisiaを構成する早朝覚醒を主体とした睡眠障害もまた抗精神病薬の賦活作用に関連付けることができると考える。
 
抗精神病薬の治療効果とこれに随伴する錐体外路症状との関連はかつて活発な論議を喚起したものであるが、両者の関連を否定する見解が増加するとともにこの問題に対する関心も薄れ…しかしこの微妙な問題は抗精神病薬の特徴を身体的側面から論ずる上で現在なお避けて通ることのできない重要性を持つと考えられるので、ここでは抗精神病薬の賦活作用の結果とみなされる抗自閉効果および興奮増強減少とakathisiaとに関する範囲内でこの問題にふれる必要がある。
 
ここではakathisiaにおいて時に運動、作業、会話、活動範囲拡大への要求の生ずること、このような行動への展開にってakathisiaが解消される場合のあることに注目すべきである。このような要求あるいは行動は我々の定義したakathisiaというよりも、akathisiaに対する患者の反応あるいはakathisiaを解消しようとする試みとみなすべきものであるが、これらの反応(行動)が昏迷あるいはそれに近い状態にある者や、無為、好褥、緘黙、孤立、閑居を守り、あるいは拒絶的態度を固辞している者に生じたとすれば、その結果が精神症状の改善と判定されるであろうことが推測されるのである。しかし、いったん症状が改善されてakathisiaがakathisiaとして自覚されれば、静座不能、異常感覚、焦燥感、睡眠障害などはそのどれをとっても患者には不快な副作用に過ぎず、治療の継続が不能となる。すなわち抗自閉効果とakathisiaが併存する場合、akathisiaそのものは副作用以上のものとはみなすことはできないから、akathisiaは治療効果と関係がないばかりでなく治療の妨げになるといわなければならない。同時に効果は、少なくともその一部はakathisiaそのものによってでなくても、akathisiaに対する患者の反応としての行動変化によって理解できるから、この意味でなら両者は関連があるといってもよかろう。
入り組んだ記述で、特に「いったん症状が改善されてakathisiaがakathisiaとして自覚されれば」がよく分からない。それまでの「akathisiaを解消しようとする試み」の段階ではアカシジアの自覚、不快感はなかったのだろうか。そうとは思えない。
こう考えてみればどうだろう。
精神賦活、運動亢進は同じ一つの現象である。それ自体は快不快には関係ない。精神賦活が運動亢進に優るとき、その残余が「動きたい衝動」として不快に体験される。
運動亢進の少なくとも一部は精神賦活に対する対処行動である。抗精神病薬が過量になれば精神賦活が強くなり対処できなくなるだろう。このとき不快感が体験される。
精神賦活が運動亢進と釣り合っているときは不快感がないのかもしれない。ただし運動亢進が目立てばそれは偽アカシジア(pseudoakathisia)と見なされる。
 
今回の問題に戻ろう。うつに対してアカシジアを起こしやすい薬を使う意味である。
うつに対して精神賦活と運動亢進が少なくとも見かけ上の改善をもたらすことはあるのではないか。そのために医師はこのような処方を習慣的に行っているのだろう。しかしそれは危うい。アカシジアの不快感と紙一重であるし、失敗すれば自殺という最悪の結果もあり得る。アカシジアの不快感、苦痛から自殺に至ることもあるのだから。
ではこの処方のメリットはまったくないのか。改善は見かけ上のものであって患者にとっては不快な体験でしかないのであればそうだろう。そうでない可能性はある。少量投与の段階で精神賦活と運動亢進が釣り合っているとする。そのとき患者はたとえば散歩に出る。このことで快感や達成感を得て、散歩という行動が正の強化を受ける。これにより散歩が日課になる。期せずしてうつの行動療法になる訳である。八木の言う「抗自閉効果」が最初のきっかけ、呼び水となる、ということである。
ただし、これは好意的な見方であり、薬物による「抗自閉効果」は必須ではない。他の方法で行動を促すことができる。それどころか、薬物療法で改善したと考えてそれに頼る診療になれば、アカシジアを引き起こして失敗する。今回はこういうケースではなかったか。

精神医学的診断は必要か?

DSM5でもカテゴリカルな診断は残しながらも各疾患は連続しているという見方を取っている。

個々の人に診断を当てはめて治療方針を立てる、という医学一般ではある程度有効な手法が精神科に馴染まないことは個人的には以前から感じている。 たとえば、過去に境界型人格障害、双極性障害、統合失調症などと診断され、診断が変わるごとに薬が変わってきたが一向によくならない、それどころか薬が単に変更ではなく追加されて多剤併用になっている、ということも多い。 1つを除いて誤診、というのなら分かりやすいが、そうではなく、どの診断もそれぞれ確からしく見える。操作的診断基準も満たしそうだし、発病状況や経過などを加味する従来の診断でもどれもまちがいとは言えない。

実際にそのような患者さんを経験したことがあるが、私はそれで特に困ることはない。なぜなら、診断によって治療が変わるとは考えていないからだ。

薬物療法を行う場合でも、上記のような多剤併用にはならない。そもそも向精神薬は疾患に対してではなく症状に対するものであり、疾患特異的な処方がある訳ではない。ターゲット症状を明確にして効果を的確に評価すればよい。

それ以上のこと、たとえば「統合失調症なら生涯服薬が必要」というかつて考えられていたことは根拠が乏しくすでに過去のものとなっている。

そして非薬物療法や広い意味での支援を考えれば、診断の持つ意味はさらに低い。その人の抱えている問題、医療が介入するポイントは疾患それ自体ではない。古きよき精神医学に固執する高木俊介でさえ、「疾患障害モデル」と言い、困難は「障害」に関連していると言っている。私たちと彼の視点は異なるが、問題はその人の生活上の困難(disability)であり、苦痛(distress)なのだ。それに対するサポートは診断によって異なる訳ではない。

もし「診断」が必要ならそれは精神医学的診断とは別の何かなのだろう。東俊裕氏が以前言われていた、障害の社会モデルに基づいた障害分類、ICFに代わる当事者のための分類というアイデアを連想する。もちろん最終的には一人ひとりに合わせた支援が必要だが、支援の方向性を発見するためにはそうした分類は役に立つかもしれない。

「プライマリケアから見た精神科薬物療法」

多剤併用(polypharmacy)について発表したことがある。今から7年前、S氏に誘われて精神神経学会でシンポジストを勤めた。この学会に行ったのはこのときだけ、そもそも会員になったことは一度もない。

そのときのスライドを発掘したので見返してみた。タイトルが「プライマリケアから見た精神科薬物療法」となっているのは、当時は在宅医療が仕事の中心だったこともあるが、向精神薬の身体や生活への影響を訴えたかったのだと思う。

今ならもう少し別の論じ方をするかもしれないが、これはこれで悪くない。特にPillayの2002年の文献から引用したpolypharmacyの要因(10枚目のスライド)が15年後の日本にも当てはまることに苦笑。卓見と言って済ませてよいのかどうか。

今の観点も加えて、このスライドをもとに改めてpolypharmacyについて考えてみたい。

追伸:polypharmacyを「薬漬け」と言うと一般市民には通りがよさそうだが抵抗がある。一方「多剤併用」はメディアでは使われてないように思う。どういう訳語がいいのだろう。

「ポスト精神医学と障害の社会モデル」

障害学会第14回大会で「ポスト精神医学と障害の社会モデル」と題して発表することにした。

研究報告 1-3

抄録は提出したが、25分(うち5分は質疑)の発表の準備はこれから。8,9月はクリニックの立ち上げに忙殺されてそれどころではなかった。

過渡期を生きる医療者としてわれわれの実践はいかにあるべきか。本報告はその理論的基盤を探る試みである。

と言っているように、実践することに関心がある。クリニックちえのわでの医療はその出発点であり、橋頭堡としたいが、実践の射程ははるかに長い。

当然われわれの実践も医療の場で完結することはできない。そこを拠点として、TICを社会のあらゆる地点あらゆるレベルへ展開することが課題となるのだ。

抄録ではTICとしたが、「ケア」では狭く捉えられてしまう可能性がある。TIA、すなわちトラウマインフォームドアプローチと今後は呼ぶことにしたい。

発表の準備の過程はこのブログに公表して行く。